競馬の歴史を紐解いていくと数えきれないほどの名馬とされる馬たちがいます。例えば、先日凱旋門賞連覇を果たしたエネイブルは歴史的名馬でしょうし、日本の競馬界を見ればシンボリルドルフ、ディープインパクトは無敗の三冠馬ということで確実に日本競馬史に名を刻んだ名馬であると言えるでしょう。
フランスの競馬史においても数多の名馬が存在するわけですが、今回はGladiateur(グラディアトゥール、英語風に言えばグラディエーター、映画にもなった剣闘士の意味)を見てみようと思います。この馬は、その強さに加えて特殊な歴史的背景も合わさってフランスにおいて国民的な人気を博すこととなりました。
当時のフランスでは、1851年かの有名なナポレオンの甥にあたるルイ・ナポレオンがクーデタによって政権を握ると、翌年には国民投票によって皇帝に選ばれ、ナポレオン三世としてフランス皇帝に即位しました。この政治体制はナポレオンの第一帝政に対し、ナポレオン三世の第二帝政と呼ばれることになります。現在の君主のいない共和政のフランスを見ていると想像もできないかもしれませんが、19世紀のフランスではまだ政治体制が定まっておらず、共和政やら君主政やら帝政がコロコロと入れ替わっていたわけであります。またこの第二帝政の20年あまり(第二帝政はフランスがプロイセンとの戦争で大敗北を喫し、皇帝ナポレオン三世がプロイセンの捕虜となることで終了します)は、フランス競馬が大きく発展した時代であるとも言われ、そこで大活躍したのがグラディアトゥールというわけです。
グラディアトゥールは1862年、Frédéric Lagrange(フレデリック・ラグランジュ)伯爵の牧場で生まれました。このラグランジュ伯爵はこの時期のフランス競馬界の大人物であり、英仏の数々の大レースを制覇することになります。19世紀ヨーロッパの競馬界はというといまだに競馬発祥の地イギリスが圧倒的優位を保っていたため、各国はイギリスを模倣し、追い越せ追い抜けと努力をしていました。この時代にグラディアトゥールはフランス馬として初めてイギリスのクラシックレースを制覇するばかりか、さらにはイギリス三冠馬となる偉業を達成することとなりました。グラディアトゥールが三冠を達成したのは1865年でしたが、この時期の英仏は政治的に敵対関係にあったため、この偉業は熱狂をもってフランス国民に受け入れられることとなりました。特に馬主のラグランジュ伯爵はナポレオン1世の副将の末裔であったため、フランスの新聞はナポレオン1世が決定的な敗北を喫した「ワーテルローの戦い」をもじり、「ワーテルローの復讐」としてグラディアトゥールのイギリスダービー制覇を報じたといいます。
この英雄グラディアトゥールは、パリのロンシャン競馬場の入り口の真正面に銅像として飾られています。いかにフランス競馬会においてこの馬が特別な存在であるかがうかがえます。銅像のむこうに見えるのがロンシャン競馬場の正門ですね。
グラディアトゥールは通算成績19戦16勝でした。引退後はイギリスで種牡馬入りし、フランスにおける普仏戦争におけるフランスの敗北を経てラグランジュ伯爵の手から離れました。種牡馬としてはあまりいい成績は残せなかったようですね。
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